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2014年1月 3日 (金)

八戸の画家今川和男油画展へ行ってきました。

本日は八戸三春屋で絶賛開催中の今川和男油絵展に行きました。

今川和男さんは、八戸では知らない人がいない画家で、馬をモチーフにしているのが特徴です。近年はお花をかいています。

初めてお会いしたのは中学三年生の頃、市内の工大二高の美術コースの夏期体験授業を受けに行ったときです。

当時中学校の同級生だった今川和歌子さん(今は八戸ポータルミュージアムhacchiの中心的な存在です。)のお父さんだという認識はありました。

体験授業では、配られた果物をデッサンするというもので、水彩画とパステル画をかきました。

以前この場でもかいたように、私は中学に入ってすぐに美術部へ入部しましたが、やむを得ず退部しました。

それでも美術がやりたくて、体験授業だけでも受けに行ったのです。

このときにデッサンの技法を教えていただいて、自分の絵がめちゃめちゃ上達したのを覚えています。
その技法を使いたくて、このときに初めて使ったパステルを親にせがんで買ってもらって夢中で絵をかき続けました。

そのときにお会いしただけなのに、私に会った瞬間、「私が覚えでら人かな?」と言ってきました。
(標準語にすると、以前会ったことありますか?とか、知り合いでしたか?とかいうことです。)

「私は中学のときにお会いしたことがありますが、美術をやっている竹本と申します。」
と言いましたら、

「あ、竹本さん、和歌子がいつも家で話してます。どうもどうも。」
と始まり、

開口一番
「私はここで絵を売っているんです。売ることが目的でない芸術も純粋で美しいけれども、私はとおの昔にそれを卒業して、絵を売っています。私は画家ですから、毎月個展をして全部の作品を売るんです。」

と言いました。

私は、展示するだけのアーティストよりお金にしようとする人の覚悟だとか仕上がりだとかがより作品を深くしていると感じているので、この言葉と感覚はすっと入ってきました。

今川和男さんは八戸在住で絵でたべていて、どこにも属さずに孤高の道を行っている。というのは子どもながらにも感じていましたが、どのような立ち位置で制作してこられたのかまでは知らなかったので、今日は話せて良かったです。

無意識に、「アーティストを職業とする以上は、年に一回個展するなんてのはおかしい、ほかの職業と同じように年中絵をかいて発表するべきだ。」と思ってやってきたのは、

今川和男さんが、中学生の私たちの前で、
「私はこのあいだ、個展をやって全部売れて二千万円くらい入りました。」
と言い放ったからだと今日気づきました。

地方で活動しながらも団体展に属さずに、確固たる信念で活動してこられたのがよく理解できました。

今川和男さんが私に話した絵を売るための三ヶ条、

①きれいな明るい色を使う。
②絵は品良く。
③値段を高くしない。

ギャラリーにも属さずに、自分の足で日本全国で個展をしてきた今川和男さんのパワーはものすごく、会場にあるのは全て新作でした。

近年の花の絵も素敵でした。

私や和歌子さんの活動には物申したい部分もあるようですが、応援してくださっているようです。
そのなかで今日言われたことは、昨年末から自分に自問自答していることへのかなりのアドバイスになりました。

元気もらってきました。

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2014年1月 2日 (木)

アートがわからないとかわかるとかということについて。

あまちゃんを始め、最近のNHKの番組構成には、とても感動することが多い。

年末の深夜にやっていたPerfumeとプロジェクトマッピングのコラボを紹介する番組や、きゃりーぱみゅぱみゅの舞台裏を特集するものからも感じたのだが、

ちょっと前までは、「わからないもの」に位置していたものだったり、技術的にも思想的にも高いものだったりしていたものが、ここでは仮に「アイドル」とするが、一目見てわかりやすいものと結びつくことによってよりいい形での表現が成立しているのではないだろうかと考える。

そもそも、よりコンセプチュアルなものはそういったものの力を借りることでアウトプットできるという要素もあると思う。

作品のプロセスなどは異なるが、時々比較対象になるコンセプチュアルアートの代表的なアーティストと言われているであろう河原温さん、松澤宥さん、どちらにもお会いする機会があり、その印象としては、お二人ともごくごく「ふつう」の方だった。

「わからないアート」と言われそうだけど、制作者はすごく世間一般的な考え方、生活スタイルをもっている。
「表現」を削ぎ落として本来の人間の(宇宙の?)感覚的な部分まで掘り下げていくと、こういう表現になるのではと思う。
本来人間はそれくらいの伝達で事足りていたはずなのだが、いろいろな説明や装飾がつかないと理解できなくなってしまうほど感覚的にぶくなっているのかもしれない。

そのときに「わからない。」という言葉が出てくるのかもしれない。

アートだとかなんとかをぶっ飛ばしてみると、極めて単純明快なメッセージだとも見て取れる。

先日かいた、教育と福祉の問題のなかでも、ある一定の基準やラインに沿って日々を送ってくると、そこを逸脱するものは「わからない。」ということになる。

しかし、実際に社会に出てみると、不測の事態があったり、答えが出ないことがあったり、「わかる。」「わからない。」では判断しにくいこともある。


ただ、そういうこととは別に、考え深いものがあったので書く事にする。

私が企画したもので、美術館やギャラリーではないある個人の敷地を使わせてもらって展示したアーティストが、展示場所提供者に、
「あれではわからないから、もう少し説明文などをつけてほしい。」
と言われ、
「あの作品はわからなくてもよいのです。そのままで見てください。」
と言ったという。

私も以前はそんなふうにして突っぱねていた頃もあった。

でも、わからないものであればわからないものなりに入口を作る努力はしなければならないのではと思った。

「わからないままでよいのです。そのままで見てください。」

というのであれば、それなりの作品の見せ方や作品のクオリティをあげる責任は最小限アーティスト側にあるのではないかと。

あえて説明をつけない。
わからない。
わかりにくい。ものであったとしても、それがそういう目に耐えられるだけのものであれば、何かしら相手に伝わるものはあるのではないか。

と私は思う。

わからない潔さまでその作品が到達しているかどうか。とか。


先日このようなこともあった。

私が運営しているアーティストグッズのお店「チエン堂」が出店したイベントで、手伝いに来てくださった方が
売る時にみな「これいくらですか?」ときいてるけど、表示がわかりにくいから値段を大きくかいた方がよい。と言われ、じゃ、気がついたならかいてつけておいてください。と言って、かいてつけてもらった。

「表示がわかりにくい。」と繰り返し言われながらも、なぜこの人はそんなに表示にこだわるんだろう。と、正直なところ、うるさくも感じた。

私は売ることのプロフェッショナルではないにしろ、何度か出店イベントを繰り返していて、ほかの出店者にアドバイスも受けながら、何にお客さんがひかれてくるのかということを意識してディスプレイしている。

「フランクフルト300円」のような売り方をしていないのと、自分の活動を知ってほしいので、いかに近くに寄ってきてもらってコミュニケーションをとるかに重きを置いている。

では、近くによってきてもらうのにはどうしたらよいのかということを常に考えている。

結局、「表示がわかりにくいから。」といって大きく表示をかいてもらったにもかかわらず、寄ってきたお客さんは、
「これ、いくらですか?」
と表示を見ていなかった。

商品が少なければ大きく表示するけど、今回は売れるイベントだったので、小物を手にとってワーイ。となる場合は、いかにアイキャッチなものを作ってごそごそといろいろひっくりがえしてみてもらうような形をとる。

といっても、言われたことは真摯に受け止めるタイプでもあるので、最低限の表示以外のもっとわかりやすいものは必要なのかなと考えたりもした。

どっぷり疲れて、翌日、ことぶき福祉作業所に行くと、盲目の女性が訪問にいらっしゃった。

彼女は、とても素敵な歌声を持っているらしく、みんなに「歌って。歌って。」とせがまれていて「年に一度だから。」と言って素晴らしい歌声を披露してくださった。

そんな彼女と接しているうちに、私ははっとした。

自分自身のことはよくわからないものだが、彼女を介して自分のことが見えた気がした。

昨日のやりとりにしろ、私は普段、目で見えてはっとわかるわかりやすさという部分でのコミュニケーションだけを望んでいないということがわかった。

目でない別の部分の感覚を張り巡らして、何かを読みながら仕事をしているのだと気がついた。

私がつくったキャラクターにしても、ただのステッカーだといえばそうかもしれないが、そこに感情移入する人たちがたくさんいる。

それは私がどこか意識的に、目で見る以外の肌で感じる部分、空気で伝わる部分のコミュニケーションを盛り込んでいるからかもしれない。

大学のときに、「アートのバリアフリー」の授業課題があったけど、目で見なくても参加できる「トビヲちゃんを探せ。」はできるのだろうか。
今回のちょうぷくちゃんのように、ある場所で役割の違うちょうぷくちゃんがいるということにすると可能かもしれない。


わかる。わからない。ということだけでは解決できない人間の野性的感覚の部分のコミュニケーションが非常に大切なのではないかと信じて、仕事をしていくのだと思う。

もちろん、私自身がそれにともなう技術やクオリティをもっと高めていかなければならないと思う。


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