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2013年11月21日 (木)

「みんなが」とか、「ふつうは」という言葉

例えば会話のなかで、

「みんなが言ってる。」とか、

「ふつうは・・・」という言葉が使われることがたたあるけど、自分のなかで、どこか、芸術関係ではこういう単語は治外法権だと思っていた。


ただ、自分も時々、人に対して使ってしまっていることがあった。

どこか、「多数派」であると自分の考えも正当化されるような気持ちになるのかもしれない。

先日、「みんなと一緒でいいです。」と言ったら、「まきちゃんらしくないね。」と言われた。

自分としては、いつも、「みんな」と一緒でいい。と思う。

どうしてもこれ。というのが日常的にはあまりない。

調理実習、みんなが料理作りたければ、自分は洗い物でよいし、掃除時間、ほうきが人気あれば、自分は雑巾がけをすればいいと思う。

個性みたいなものを追求させられることの方が苦痛なときもある。

ただ、幼い頃から、「みんな」と一緒。と思っても、みんなと一緒のやり方がわからなかった。

「みんな」がスムーズにできることができないし、お部屋にいたいけどいかたがわからないからお外のすべりだいに一人でいた。

怒られた。

でもどうすればよいかわからなかった。

ある日絵をかいていたら「みんな」が集まってきた。

わたしが絵をかくことが「みんな」との接点となった。

絵をかけば人が集まる。

もっとかけばもっと集まる。

そうやってすごしてきたが、大人になるにつれて現実にぶつかるようになり、いろんな道を歩いてみた。

けども、結局もとにもどった。

最近私は立て続けにこう言われた。

「みんな把握して理解していたのに、あなただけが把握していない。みんなの迷惑になる。」

「会議に出てもあなただけが発言していて、みんなあなたの話をきくために会議に出ているのではないと言っている。」

こうなってくると、「みんな」ってなに?

「みんな」ってだれとだれ?

「みんな」がわかっているとそれが正式な考え方になるの?私のような価値観があってもいいんじゃない?

「みんな」が私をうるさい。と言っている。

「みんな」がわかってくれなくても、誰かが必要なことかもしれないし、誰かが私の発言によって救われる人もいるかもしれない。そう思って自分を奮い立たせて話してる。

中学のとき、「真紀ちゃんのことをみんながうるさい。と言っている。」

と言われて、そんなふうに人から思われてると思いもよらなくて、自分がこの世からいなくなれば人に迷惑をかけずにすむのに。と、いつも背を丸めて顔が見えないように歩いていたことがあった。
目も悪くなった。
でも、そんなときでも絵をかくことだけが自分を支えてくれた。


美術家とは、一人で立ってるものだと思う。

いまだ、ピラミッド型の、先生にいくらかお支払いすれば先生と同じ展覧会に出展できるとか、そういうご商売をしている方もいる。そういう方々はそれはそれで本人たちも幸せであれば、よいとは思うが、
私はそれはできないししない。と言った。

作家は自分の作品でのみ勝負しなければならないと思っているからだ。

しかし、「みんな」了承しているのに、あなただけがおかしいし、迷惑だと言われた。
私は、忙しさを自己管理できない人として処理された。

でも、それでもよい。「みんな」のなかに入りたくもない。

そういう私も、「みんな」とよく使う。

「みんながそう言ってた。」という使い方をしてしまっていたことを改めて反省したけど、

「みんなでがんばろう。」とか、

「みんながハッピーになれますように。」

の「みんな」は、「みんな」でよいのではないか。

そうすると、「みんな」はいろんな価値観や、考え、思想をもった全ての人をひっくるめていうときに使うのであって、
相手をひとりぼっちにしてやろう。孤独にしてやろう。とやっつけるために使う言葉ではない。と考えることにしよう。

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