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2012年1月31日 (火)

美術家 竹本真紀 講演会「アートによる地域活性化について」

美術家 竹本真紀 講演会
「アートによる地域活性化について」

2012年2月10日(金)14:00~
参加費:500円(飲み物・八戸南部せんべいつき)
会場:Chapter2(長者町アートプラネット2F)
15:00~17:00 黄金町界隈のまちあるき

*美術家 竹本真紀
青森県八戸市生まれ。横浜市在住。
まちの中にキャラクターを出没させて探してもらうまちあるきプロジェクトを各所で行っている。
シャッター街活性化の空き店舗活用として呉服屋さん跡地を活用した「ちりめんや」の活動や、総務省に「アートを生かしたまち」に選定された八戸市での活動などをお話します。

*講演とまちあるきは、東北都市東京事務所協議会(構成都市:仙台市・青森市・八戸市・盛岡市・花巻市・秋田市・鶴岡市・いわき市)の研修会として開催されるものです。
一般の方もご参加いただけます。

〒231-0033
横浜市中区長者町9-159第一田浦ビル2F
MAIL artplanet159@gmail.com
URL http://artplanet159.web.fc2.com/
TEL 045-334-7230
(ちりめんや 11:00-19:00 月休)
お問い合わせ:Chapter2運営委員会

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ちりめんやpresents・・・だから、さくら画廊

ちりめんやpresents・・・だから、さくら画廊。

横浜市中区初音町にある呉服店跡地を利用した「ギャラリー*ショップ ちりめんや」
に集った三人のアーティストの展覧会です。 

会場で、ちりめんやオリジナルトビヲちゃんてぬぐい、吉井千裕デザイン大岡川てぬぐいを販売します。

日時:2012年2月9日(木)-2月19日(日)
     11:00-18:00 火・水 休 入場無料
場所:さくら画廊

〒233-0002 横浜市港南区上大岡西2-2-10 MK第2ビル地下1階
TEL&FAX 045-846-3987

参加アーティスト
水泡庵(陶芸)、竹本 真紀(絵画)、吉井 千裕(絵画)

LIVE
日時:2012年 2月12日(日)
開演:14:00(終演予定15:00すぎ頃)
出演:小木曽 綾 小型ハーブ、ブサルテリ、ティバーパイプ他
予定曲目:水泡庵作曲 中世風の3つの旋律 作曲者不詳 フランスの吟遊詩人の歌 他
定員約10名 予約制 入場料1000円
予約先 さくら画廊 045-846-3987 sakura@cd.wakwak.com
水泡庵   renraku@suiho-an.jp

主催:ギャラリー:ショップ ちりめんや
MAIL chirimenya529@gmail.com HP http://chirimenyart.web.fc2.com/
NPO法人黄金町エリアマネジメントセンター ハツネFine!プロジェクト
助成:公益財団法人トヨタ財団

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2012年1月30日 (月)

もう会えない友人のこと。

時々数年前に自ら命を絶った友人のことを思い出します。

強烈なキャラクターの持ち主で、一緒に馬鹿なことばかりやっていたことしか思い出せません。

上京するとき、一緒にアパートを探したり、いろいろ世話をしてくれたりしました。

わたしが、くよくよしたり弱いところを出すと、いつも彼女に怒られていました。

でも、その怒られたことが、仕事のふしぶしやピンチのときにいつも思い出されるのです。

私は、彼女が死にたいといったときに、逆に怒りました。

彼女もものをつくりだす仕事をしていたので、「まだ歴史に残るもんつくってないだろ!!」と怒りました。

「うつ病に頑張れというな!」と逆に言われましたが、そんなやりとりをできているときはまだよくて、いつのまにか彼女はもう会えない人になっていました。

アパートを決める時、お金がなくて、「お金がない・・」とつぶやいたら、

「契約とか、何か決断するときにお金がない。と決して言うな。」と言われました。

これは、今でも、大きい仕事がきたときに、心の中ではビビっていても、彼女の言葉を思い出して、自信を持ってうけることにしています。

上京したてのころ、わたしは、わからずに宗教に入りそうになったことがありました。

駅で手相を見るあの方たちです。

手相を見られてその見てくれた人が八戸出身で、共通の友人などがいて盛り上がったので、飲み屋で意気投合したごとく、ついて行ってしまいました。

カウンセリングなのだと思って通っていましたが、あるとき、ここに通っている時間があったら制作の時間に費やしたい。と思い、やめました。

「ここにきても心を許せないなんてかわいそう。」と言われましたが、そういう人たちがかわいそうだと思いました。

一年後、筑紫さんのNEWS23で、「占い集団の実態」というドキュメントがあり、わたしが通っていたところがモザイクで出ました。

知っている場所ってモザイクでもわかるもんなんですね。

にこにこしていたあの人が声を荒げてカメラに撮るな。と怒っていました。

驚いて、ああ、よかったやめて。とほっとしました。

このことを彼女に話したら、やはりひどく怒られました。

「わたしには宗教はいらない。家に帰って嫌なこと全部ノートに書いてわーっと泣いて終わり。」

と彼女。

そのときはぴんとこなかったのですが、最近、ノートに嫌なことを書いて、人にぶつけないようにする。というのを何かで読みました。

それで、彼女のことを思い出しました。

わたしがピンチのとき、悩んでいる時、いつも彼女の言葉がわたしを助けてくれるのです。

彼女から見たわたしは、ひどく純粋な人間で東京ではとてもやっていけないとどこか心配していたところがあります。

でも、そんな彼女の方が心を病んで逝ってしまったのが、まだ不思議でならないのです。

思春期を一緒に過ごし、東京でまた変わらず馬鹿なことをやって、これからどんどん面白く一緒に年を重ねていけたのになあ。と思う一方、

彼女がすごくわたしの近くにいて、背中を押してくれているような気がするのです。


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2012年1月29日 (日)

土佐正道さんとのトークで。

昨日明和電機会長土佐正道さんとトークしました。

特に打ち合わせもなく始めたのですが、結構しっかりとした内容のトークになりました。

以前からもともと美術畑ではない土佐さんが、村上隆さんや昭和40年会と同じ場所にいながらそれらを見ている視点に興味がありました。

しかし、昨日のトークから、けっこう美術詳しいな。勉強しているな。やはり場数かな。という非常に明快な美術の話が聞けたような気がしています。

土佐さんとのなれそめからトークを広げて行ったわけですが、過去を振り返ることにより、自分でも忘れていた創作のもとになったことなどが、じわじわと思いだされました。

私は美大を希望しつつも、家にお金がない、指導できる人がいない、など様々な要因から弘前大学教育学部小学校教員養成課程に進学することになりました。

それが不幸中の幸いだったというか、様々な分野の人と出会うきっかけになりました。

学生寮の同じ階だった友達に「明和電機というのがあって、札幌でライブがあるから一緒に行こう。」と誘われて行ったのが初めて土佐さんを知ったきっかけでした。

友達は人文学部で、ホームレスについて卒論書いて卒業したような気がします。

昨日のトークでも弘前大学のバレーボール部の後輩が二人やってきました。

わたしは、大学3年に、漢文学ゼミから美術絵画ゼミに移り、そこから美術の生活が始まるわけですが、追求して追求して最終的にできあがったものは、先生には褒められましたが、バレー部の友達などからは「意味がわからん」と言われただけでした。

会話べただった幼少時代、絵をかくことはわたしのコミュニケーションツールでしたから、意味がわからんで終わったら意味がなかったわけです。

そんなこともあり、ほかにも様々な理由はありますが、美術の人とつるんでいても新しい作品はできない。
と思っていた時期があり、土佐さんだったり、詩人の松井茂さんだったり、音楽家だったりといろいろやってきた経緯があります。

土佐さんとのなれそめといえば、村上隆の芸術道場がきっかけでした。

芸術道場はGEISAIのもとになったイベントで、グルーヴィジョンズ、ヒロ杉山、明和電機から一人選んで、自分の作品について批評してもらえる。というものでした。

土佐正道社長は、
「昨日かいたんじゃないのか!」と、やっつけでかいたようなことを私の作品に向かっていいました。

青森から出てきたばかりだったわたしは、かなり怒って、イベント終了後号泣しました。

なぜかこれが、土佐さんと仲良くなるきっかけでもあったのですが、このことに関しても、いろいろと自分の作品について思い出されることがありました。

「これ、自分にもかけるじゃん。」と、思わせる作品を作りたいと思った時期があり、かつ、それをそのように見せつつも工程に時間をかけるということをやっていました。

すぐにさらっとかけるモチーフを下地を何回も作り、わざと自分がかきにくい状態にしてかくということをやっていました。

トビヲちゃんのもとになった平面作品もそのように作っていました。

なので、スーパーフラットは意識せずにやっていました。

また、銀座で月1で個展をしていた時期があり、画廊まわりをしているおじさんたちに、
「わたしは、いろいろまわっているからわかっているんだよ」というような感じでよくわからない批評をされるのが嫌で、画廊まわりのおじさんが何も言えないような作品をつくりたいな。と思ってできたのがトビヲちゃんのもとになった作品でした。

これが効果があったかどうかわからりませんが、月1で個展しているうちに顔見知りになって、あまり失礼なことは言われなくなったという経緯もあります。

土佐さんとのトークの話とは離れたような気もしますが、自分の作品制作のことをいろいろと思いだしました。


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2012年1月28日 (土)

横浜や黄金町に関わるようになってからの正直な悩み

わたしの育った青森県八戸市というところは、いまでこそ、「アートのまち」になりつつあるのですが、
わたしがいたころは、見れるものというのは非常に限られていました。

上京したてのころは情報量の差に大変驚きましたし、現役のアーティストに会うなんてことも夢のようでした。

ましてや、横浜のアトリエ誘致の制度など、ありがたくて仕方がないといったところです。

ただ、ZAIMの頃からもったいないなあ。と思ってしまうのは、市からの援助が当たり前になってしまう人というのが出て来てしまうことです。

わたしはなぜか、昔から調整役だの、「長」のつくものになってしまうことがあり、決して自分がやりたいわけでもないのに、引き受けてそれなりにこなしてしまう。という癖があります。

今までで一番つらかったのは、大学の学生寮の寮長。

ほぼ二年間を棒にふりましたが、この辛さを思い出すと、何事も頑張れる気がします。

めんどうなことを引き受けているのに、なぜか、文句をつけられるというのが「長」の性。

本当に嫌で引き受けたのに「モテたいから寮長になったんでしょ。」と、ののしられたことがありました。

それと似たようなことが横浜でも続いていて、ZAIMでの調整役を引き受けたのに、アトリエに村田さん山野さんがいないことを確認して、「市から金もらってるだろ」だのなんだのと、酔っぱらって2時間以上も文句をつけられるということが数回続いて、作業どころではなかったときがあります。

わたしは本当であれば、自分の作品だけに集中したい。

しかし、調整役というのも、実は自分にとってはそんなに面倒でない部分もあるので、自分ができることで助けになることであれば引き受けてもよいというくらいでやってきました。

ZAIMには様々な人がぐちゃぐちゃにいましたから、それぞれが何をやりたいのか、どうしたら各々のやりたいことが最大限に魅力的にみえるのか、そう考えていました。

9001の運営業務もそうですし、自分のやってきたことに近いことができそうだったので喜んで引き受けました。

特に行政の仕事が多いのは、わたしが、行政の会話とアーティスト側の言語を翻訳仲介することができるからだと思います。

負い目を感じるわけではないですが、やはり税金を使っているという意識は忘れてはならないと思うので、だからこそ、若手アーティストの頑張っている方に仕事をつくるようなことをしたり、何かつながることがあれば情報を流したりしていますし、材料を地元の個人商店などで購入するようにしています。

9001のときは、黄金町のアーティストに仕事を紹介したり、財団の他施設のイベントを黄金町につないだり、しました。

しかし、黄金町の一員になってみると、

「なんで竹本だけ人件費をもらっているんだ」
「なんで竹本だけ仕事をもらっているんだ」

などと、言われるようになりました。

自分もアーティストとして大成しているわけではないけれど、自分のところにきた機会や情報は提供していたと思いますし、みなさんの仕事のしやすいように、事務的なことなど全部やっていました。

私が、もらった仕事というのは実はほとんどないです。自分で仕事を作っているのです。

私は私の作品をもっと作りたい。
でも、それだけではまだまだ食べていけないし、生きることを考えなければならないし、今、横浜で何をやるべきか、9001、ZAIMのあとどんな方向性を考えればよいか。と考えたときに、ちりめんやや長者町アートプラネットというのでてきたわけです。

引き受けた時点で私の収入はぐっと下がり、生活ができなくなることは承知のうえで引き受けました。
ちりめんやは依頼があった時点で、人件費が多少なり出ないと厳しい。という話でそのような形を作っていただいてやることができています。
長者町アートプラネットに関しては、自分で稼いで人件費にするという流れです。

ただ、お金をもらうことというのは、それ相応のことをしなければならないので、
「なぜ人件費をもらえるの?」と言う方は、わたしの後ろについてどんな仕事をしていて、それを全部肩代わりしたらどうでしょう。

わたしの仕事、代わりにやってくれるのならありがたい話です。

先日もちりめんやに作品を委託している方に、「竹本さんは忙しくていいね。」と嫌味っぽく言われました。
この方の商品、空中の森マルシェや光のぷろむなあど、寒い野外で、一番見えるところで、一生懸命声を出して売りました。
なぜなんだろう。

わたしの家は裕福ではないので、美大には行けなかったので、美大を出させてもらっているというだけで恵まれて見えますし、わたしに作品預ければ私が売ってくるし、銀座のような値段を払わなくても十分展覧会のできる環境、制作できる環境があって、まだ何かいうか。
アーティストなんてやめちまえ。

・・・と言いたい。

こうなると、横浜に来る以前の方が、もっと高い意識でやっているアーティストとの交流があって、お互いを高められる状態にいたな。と思ってしまいます。

でも、そんな変なアーティストばっかりではないです。

外で苦労されて横浜にたどりついた方は、本当にありがたい。と言ってすごくよい動きをしてくださっています。

ただ、なんか変なのがあまりにも多い。


もっとシンプルに仕事をさせてくれ。と言いたい。


だから初音町のおばちゃんたちと一緒につるんでいるというのもあります。

そちらが気楽で楽しいから。

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問題点を指摘するということ。

会議などで勇気を持って問題点を発言することがあるのだが、だいたい流されてしまったり、話題を変えられてしまうことが多い。
逆に怒られることもある。

こちらとしては、素直に疑問に思ったことを尋ねて確信をついてしまい、逆鱗にふれることもある。

そのたび、ああ、また馬鹿な質問をしてしまったんだなあ。とそのたび落ち込むが、それが出会いのきっかけになったこともある。

弘前大学のとき、付属小学校の公開授業というのがあって、勉強のためと、そのあとの分科会にも参加した。

図工の授業で、「岩木山をゴッホのタッチでかいてみよう!」というもの。

いい授業だな。と思った。
ゴッホの模写をすることと、地元の岩木山をかくことと一石二鳥で、ゴッホのことも覚えられる。

しかし、疑問に思ったのは、子どもたちに配られた紙に、黒い線で岩木山の形がかいてあったことだ。

大学院生や、他の小学校の先生や、大学教授がいるなか、発言権がわたしにまわってきて、
「どうでしたか?感想でもなんでもどうぞ。」
と言われた。

授業は非常におもしろかった。でも、最初から岩木山の形がかいてあっては、ゴッホのように自由にかけないのでは?

と、自身なさげに発言した。

しかし、このことについては何も言われず、どんどん次の発言者へまわっていった。

各小学校の自慢話のようなことで、会議はすぎていった。

きっと、わたしはまた馬鹿なことを言ったんだろうな~。と、がっくりしていると、

帰りがけに、弘前大学側で席についていた美術家村上善男先生が私のところへ来て、小声で、
「今日の会議、おまえの発言がなかったら、全く意味がないものだった。」

と言い残して颯爽と帰っていった。

驚いた。

いつも授業では村上先生に怒られてばかりいたので、ほめられたのがうれしくて、その日は眠れなかった。

これが、村上先生といろいろ話をするきっかけになった。

後々きいたら、村上先生もそこが一番気になっていたけれど、弘前大学側で弁護する立場にあったので、指摘できなかったのだとか。

わたしのような一学生がそこを指摘したことによって村上先生は救われた気持ちになったのだとか。

しかし、今でも、わたしは同じようなことを繰り返して、偉い人を怒らせて、がっくり肩をおとす。

おとといもまたそのようなことがあって、また馬鹿なこと言ってしまったんだろうな。
と思っていたら、

「竹本さん頑張ってますよね。わたしはいつも、みてますよ。」と耳元でささやかれて、本当にうれしかった。

ただ、問題点にばかり目がいってしまっていらいらするのもよくない。

もう、いい年なので、適当な加減も考えていかねば。

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2012年1月 6日 (金)

きゃりーぱみゅぱみゅと篠原ともえ

今日は少し寝坊してしまったが、朝の日課お散歩へでかけることにした。

お散歩していると自動的に頭の中が整理される。

部屋の中でうーん。と手帖とにらめっこしているよりも、楽に整理できる。

本当に忙しくなると、手帖にメモって確認ということも手間になってしまうので、頭の中に予定をぶちこみ、あとは成り行きにまかせる。

ときどきミスることもあるが、「そうだよ。完璧にできたらこわいよ。」と逆に安心したりする。

散歩中に知り合い二人に会った。

ひとりは黄金町で活動するアーティスト。
バイトへ出勤するところだった。
おお、ここでバイトしてるのね。と素性がわかる。

ひとりは、ちりめんやによくくるヤクルトのおばさん。
この人は広範囲でヤクルトを売っているらしく、あらゆる場所でよく出会う。
昔は黄金町のちょんのまの女性たちがよく買ってくれて非常にもうかったそうだ。

歩いているうちにきゃりーぱみゅぱみゅのことを考えた。
PVに出てくる村上隆っぽい目玉のこととか、ちょっと魔女っ子っぽいところとか、こういうのは海外の大好物なんだろうか。と。

いつも言っているが、わたしは、小1のとき、クリィミーマミの設定資料集を初めてみたことで、絵をかく人になろうと思った。
クリィミーマミの完成系に至るまでのいろんなクリィミーマミ、苦心のクリィミーマミがそこにあった。

これは、もしかしたら、わたしがキャラクターをたくさん作ることになるルーツだったのかもしれない。

最近のアイドルにしてもきゃりーぱみゅぱみゅにしても、わたしくらいの世代がプロデューサーとして名をあげているわけだから、きっとみんな80年代のアイドルや魔女っ子シリーズにどこかノスタルジックなおもいや、そこを起点とした発想などから、ものづくりしているのではないか。と勝手に妄想している。

散歩の中の頭の妄想は、なぜか篠原ともえにいたる。

きゃりーぱみゅぱみゅが腕周りにつけているいろんなアクセサリーのことを考えていたら篠原ともえのデビューのころを思い出した。
しかも、石野卓球プロデュースじゃなかったっけ。
こちらもテクノポップ。

自分の中でかぶった。

でも、きゃりーぱみゅぱみゅの方が洗練されていて、驚きとか、TVに出たときの恐怖感みたいなのは、篠原ともえの方が大きかったと思う。

と、アイドルについていろいろ考えていたら、わたしの父親も妙にアイドルに詳しかったことを思い出した。
家では、ロックのライブビデオを見ていることが多かった父親だが、アイドルにも詳しくて不思議に思ったことがある。

ロックとアイドルは何か通じるものがあるような気がする。

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2012年1月 3日 (火)

想いを預かる仕事

今日がちりめんやの仕事初めでした。

お正月やお盆に帰るたびにお店に寄ってくださる、元ちりめんやさんの息子さんが今日もご来店し、たくさん買いものをしてくださいました。

ちりめんやという呉服屋さんのことは、大家さんの元ちりめんやさんからおききする以外に、実は、トビヲちゃんを設置しているときも、関内外OPEN!で若葉町へお話しに行くときも、長者町アートプラネットという拠点で活動しているときも、

「ちりめんやのご主人にはお世話になった。」と言われます。

黄金町エリアマネジメントセンターの理事長も、ちりめんやの主人が生きていたら、私は理事長をやっていなかっただろう。とおっしゃるほどの方だったようです。

わたしは、ちりめんやで活動をすることによって、元祖ちりめんやさんが、様々な場所で作った信頼関係をありがたく引く継がせていただいていることに非常に感謝しています。

逆に悪いことはできないなあ。という感じですが・・

地域のへだたりなど分け隔てなく、色んな方々とお付き合いをされていたんだなあ。と思います。

先代の作った信頼関係でなんとかやれています。というと、

どんどん使ってください。

とのこと。

ありがたいです。

わたしは、2010年3月まで携わった創造空間9001(旧東横線桜木町駅舎)にしろ、たくさんの方々の想いの宿る場所を預からせていただくことが多いように思えます。

ただ、想いだけに流されないように、客観的な視点で、取り組む視点が必要だと思っています。

丁寧に慎重に仕事をしているわりには、自分の違う人格がえいっと、コトブキンちゃんとかを作り出して、自分が知らない間に自分が入れないようなところにまで、キャラクターが独り歩きしていってしまっています。

まじめに話してるのに、どこかでいたずらしてしまいたくなる病気があるんです。

いろんな様々な想いが交錯するなかで、自分がしっかりとした柱を持っていないとできない仕事です。

いろんな人がたくさん動いたリレーのおかげで、自分が今の場所にいるんだ。まかせてもらっているんだ。
と思うと、非常にありがたいことです。

話が支離滅裂になってしまいましたが、出会ったことのない人たちさえも後押ししてくださっている心強さを感じました。

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2012年1月 2日 (月)

初夢

とあるテーマパークで、飛行機で2時間どこにでも行けるというアトラクションがあり、見知らぬ飛行機操縦経験者男性二人と、知り合いの女性ひとりと私で、ひとり一機ずつに乗り込み、操縦することになった。

たった一人で飛行機を操縦することになったので、飛行機でいろんな世界を見てみたいというわくわく感と同時に、自分で操縦したら死ぬんじゃないか。という不安がわいてきた。
列に並んでどんどん自分の番が近づいてくる。
その不安は尋常ではなく、途中で目が覚め、「夢で良かった。」とほっとする。

しかし、また床に就くと、夢の続きが始まった。

突然山野さんが出て来て、飛行機のうんちくを語りつつ、「飛行機に乗るのやめなさい!!」と猛反対してくる。
「え?なんで?」
「飛行機初めて操縦してうまくいくわけがないじゃないか!小串さん(黄金町のご近所の住民)だって、間違えてフィリピンまで行ってしまったんだぞ!」
「で、どうやって帰ってきたんですか?」
「徒歩で!」
「え?徒歩でフィリピンから帰ってこれるんですか?」
と言っているうちに山野さんはいなくなってしまった。

飛行機の操縦にものすごく不安があったはずだが、いつのまにか飛行機で出かけていた。

飛行機というよりは、風に乗ってふわふわと、動くもので、左のハンドルは、上がったり下がったり、右のハンドルは、前に進む速さを調節するものだった。

テーマパークはどうやらハウステンボスだったらしいのだが、ハウステンボスという名の全く違う場所のように思えた。

飛行機に乗り始めの頃は、「サクラダファミリア教会に行きたい。」という目標をたてていたのだが、行き方がわからず、近場でも十分楽しめそうだと思って、ぐるぐるまわった。

見たことのない色鮮やかなアトラクションや、壮大な森の上を気持ちよく飛んで行って、途中で美学校の同級生にたくさん会った。死んでしまった友達も元気そうで、生前よりもずっと顔色がよく、カラフルな場所で生活していて、生きていたらこんなふうになっていたかな。というふうな年のとりかたもしていた。

森の上をとびながらこれを運転できればメーヴェにも乗れるかもしれない。と考えていた。

ところでここはどこなんだっけ。ハウステンボスってどこだったっけ。長野県だっけ。

近所でもこんなに楽しめる場所があるのであれば、また来たいな。

というところで夢は終わる。

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